理想とパワハラとそれを眺めていた自分の話

先日、Twitterでふとつぶやいたこれ↓

ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。

もう何年も前のことなのだけど、思い出したらちょっと考えてしまった。当時、私は「あの上司の指導がマジ辛い」と相談されたのだけど、「マジ辛いのかー。そうかー。でも、上司はいじめたいわけじゃないと思うよ」などと返してしまった。これは悪手だった。その後、相談してきた人は「あの上司にパワハラを受けて辛い」と人事に訴えて、辞めていった。

この上司は非常に真面目で、優しく、物腰は穏やかでいつも柔らかい言葉を使う。困っている人がいれば親身に話を聴き、問題解決に動く。各自の得手・不得手をふまえて仕事を割り振っていく。「できるだけ長く働いてほしいし、この会社で働いてよかったと思ってほしい。そのために働きやすい環境作りをしたい」とよく言っていた。

理想を持っている人だった。その理想が、上司にとっても相手にとっても不幸のもとになったと思う。

残念ながら、パワハラを受けたと訴えた人たちは、(この会社で)仕事をするうえで能力に少々難があったと私は思っている。PPTで資料作り必須なのに、パソコンの電源の入れ方から教えないといけない、みたいな感じだったのだ。人柄採用したとは聞いていたけど、それにしてもそこからなのかー! と、正直、驚いた。

それでも、上司は「一生懸命やればなんとかなる」と、努力・友情・勝利! みたいな理想を持っていた。ついでに、「実際に手を動かして、改善点を指摘していけば経験値が積み上がっていく」とも思っていた(と、後日、上司に聞いた)教わる側も、人柄採用だけあって、真面目で熱心だった。それでまあ、「試す」→「ダメ出し」の無間地獄みたいな日々が始まってしまった。

上司は一生懸命、指導する。それは相手にも伝わっている。だから一生懸命に応えようとする。一生懸命の濃度が高くなるほどダメ出しは細部にわたり、それによってくらうダメージは大きくなる。

耐えられなくなってきて「マジ辛い」と相談してみれば、「上司はいじめたいわけじゃない」と返される。ああ、ここでも否定だ。さらに削られる。愛が憎しみに変わるみたいに、「応えよう」という気持ちが「応えようとがんばってる自分に上司は応えてくれない」と変わっていく。そして「パワハラされている」へ……。

客観的に、これはパワハラなのか? 私には答えが出ない。暴言や暴力はない。嫌味も皮肉もない。パワハラと言える根拠になるものはないのだ。だけど、ダメ出しをされ続けた人たちからすれば、「パワハラされている」になっちゃうよね、と思うのだ。

同時に、あの上司にとってパワハラは忌み嫌うもので、それなのに「パワハラした」と言われるのは、それこそ自分を否定されているように感じるだろう。「学ぶことがたくさんあったよ」とか「自分の力不足で」とか言ってたけど、傷は浅くないだろうと思う。

めぐり合わせが悪かった。不幸だったね。そんなところで落とすしか、私にはできない。あのとき、「上司マジ辛い」と相談されたあのときの返しは悪手だったとは思うけれど、それじゃあ今の自分なら解決策を見つけられるか? と考えてみても、せいぜい相手を消耗させないような対応をする、くらいしかできない気がする。

全員がオールOKな世界はどこにもないと思っている。でも、少しでもオールOKな状態に近づけたい。私も理想は持っていて、それがときどき、憂鬱を連れてくる。